評論 第1回 1998年10月1日
アメリカ合衆国を今日唯一の超大国と呼ぶのは陳腐なことである。しかし、それが本当に意味しているのは、どのようなことなのだろうか。「唯一の超大国」というような物言いは、ジオポリティクスの領域における圧倒的な強力さといった印象を与える。それは正確といえるのだろうか。あるいは、[一九七〇年五月の「世界人民への呼びかけ」で]毛沢東が言ったように、合衆国は「張り子の虎」なのだろうか。
ジオポリティカルな強さについて論ずる際に最初に思い浮かぶのは、軍事力である。今日、合衆国政府が自由に使用できる軍事ハードウェアが、訓練の行き届いた兵力とあわせて、他のいかなる国よりも優れていることは疑問のないところであるように思われる。おそらく、その差は圧倒的であろう。しかし、軍事的優越性については、二つの決定的に重要な問いがある。ひとつは、実際の戦闘の最終的な帰結として、敵軍が米軍に対して、どの程度の損害を加えてから敗北に至ることができるか、という点の考慮である。これは、合衆国の側から見た場合には、人命の損失と潜在的な物的損害の両方の観点から測定それうる。相手国が、十分な損害を米国に加えうる場合には、たとえ合衆国が戦闘に勝てるとしても、戦争が実行可能な選択肢であるとは見なされないであろう。このことが、米ソ冷戦の時期にあてはまることであるのは明白である。今日でも依然、真であるといえようか。
しかし、もうひとつ考慮すべき点がある。戦争を遂行するには、自国内の大衆から一定程度の同意をとりつける必要があるということである。これは通常、愛国的感情を通して調達されるが、それにはおのずと限界がある。その戦争が、その主張において正しいものであるということを、大衆に納得させる必要があるし、その戦争における軍事的勝利が実行可能な目標であるという確信も与えてやらなければならない。
これら二つの条件は、今日ではいずれも完全には存在していない。他国が合衆国に相当な軍事的損害を与える能力が、合衆国の現在の主要な悩みの種のひとつであることは明白である。それがゆえに、他国の化学兵器戦や生物兵器戦遂行能力の拡大を規制する圧力はもとより、核拡散についても、これを規制しようという持続的で膨大な圧力があるわけである。合衆国がそのような諸兵器の拡散のスピードを抑えているのは疑いをいれぬことであり、それらの諸分野における合衆国の優勢は維持されているが、その一方で、拡散の過程をブロックしつづけることは、今後十年から二十五年にわたって、勝算の薄い運動となりそうに思われる。
合衆国の視点に立った場合に、さらに大きな悩みの種であるのは、同国国民の態度である。合衆国民が「ヴェトナム症候群」に苦しんでいることは有名である。第二次大戦においては、日本による真珠湾攻撃や見るからに忌まわしいナチズムが、戦争に対する大衆的支持の強力な基盤を提供した。冷戦においては、共産主義の脅威が、合衆国における愛国的感情の動員に用いられた。もっとも、すでに冷戦期の段階においても、合衆国の世論はヴェトナムへの干渉の正統性と有益性に対して深刻な分裂に陥っていた。湾岸戦争の頃までには、合衆国で戦争への大衆的支持を獲得するには、人命の損失はほとんどゼロであることが保証されていることが条件となった。おかげで当時のブッシュ大統領は、バクダッドに進軍することなど考えてみることもできなかったのである。合衆国が、ボスニアやコソヴォで真正面からの軍事行動を起こすのに過度なまでの躊躇を示すのは、地上軍の投入が、費用のかさむ長期戦にあわせて、相当数の米国兵の人命の損失を伴うだろうということがわかっており、そのような行動を正当化することもできず、明快な軍事的勝利の展望も判然としない以上、米国世論はそれを支持しないだろうということがわかっているからだというのが、その根拠の大半を占めていることは明らかである。
もちろん、軍事力というものは、真空中に存在するわけではない。それは、経済的および政治的領域の双方における、その国の強さに立脚している。合衆国が依然として超大国の名に値するかということは、今日この点でも明確ではない。合衆国の経済的な強さは、別に論ずべきことがらではあるが、ここ五年間ほどの米国経済の強さについての、皮相に膨れ上がった評判を、あまり真に受けるべきではない。実際のところ、世界経済における相対的な経済的強度という観点からすると、合衆国経済のピークは一九四五年にあったのであって、以来着実に下降を続けているのである。そのような下降の傾向は、一九六〇年代末までは、ほとんど人目を引くこともなかったが、世界が経済の三極化──アメリカ合衆国、西欧(ないしはドイツ)、日本──を語るようになり、それがさまざまな指標に照らして明らかになってからというものは、それら三極はだいたいにおいて平衡状態にあったのである。今後十年から二十五年程度の期間では、この状況が変化するということはほとんど考えられない。もし変化が生じるとしても、合衆国の相対的な経済的強度がさらに低下する可能性の方が、その逆よりも大きいであろう。
このような三極間の平衡状況は、直接に二つの帰結をもたらす。[第一に]それは、アメリカ合衆国が軍事支出に割きうる財源の減少、ないしは(軍事支出を現状レベルで継続した場合)合衆国経済の「競争力」の低下を意味することになる。第二の帰結は、三極のそれぞれが深刻な競合状況に陥り、それが合衆国の政治的強度に深甚な影響を与えるということである。
合衆国の政治的強度とは、普通われわれが「指導力(リーダーシップ)」という言い方で議論しているもののことである。合衆国は、ソヴィエト陣営に対しる闘争において、いわゆる自由主義世界(フリー・ワールド)を「指導(リード)」してきた。これが意味するところは、合衆国政府が、それぞれの時点で進行中の政治闘争において達成されるべき基本的目標、および戦略と戦術の双方を定めるということである。そうして合衆国は、それに伴う政治的意志決定の実行における主導的立場を占め、同盟国に対して、その責務の遂行への援助を要求するのである。
右のように「指導力」を定義すると、とりもなおさずそれは、一九五〇年代および一九六〇年代の合衆国の対NATO(北大西洋条約機構)諸国・対日本関係の記述となっている。しかし、それ以降の時期については、それら同盟諸国の経済力の強化に伴って、右のような記述は正確ではなくなってきた。一九七〇年代には「三者相互協力(トライラテラリズム)」を語る声も聞かれたが、それは本質的にまやかしであって、合衆国が西欧および日本の感情に対して与えた、口先の譲歩にすぎなかった。また、ソ連が存在し続けている限りにおいては、合衆国の同盟諸国も、世界の諸問題における合衆国の役割を削減する方向に進みすぎることには二の足を踏んでいた。しかし一九八九年以来、三極それぞれの政治的立場は、ゆっくりと分解し始めており、今後の十年でその分解が急速に進展するであろうことは明らかである。
合衆国の国家としての強さを評価するには、序列的位置としての国力と概念としてのヘゲモニーとの区別をつけることが必要である。今日、他国との差は縮まってきているとはいえ、合衆国は依然、世界最強の国家ではある。しかしもはや、一九四五年~一九七〇年の時期のようなヘゲモニー国ではない。ヘゲモニー国であるということは、他国に対して、実質的に有意な経済的優位を有するということである。したがってそれは、ほとんどあらゆる場合に、有意な妥協を相対的に少なく済ませて、その政治的意志を貫徹するということである。そしてそれは、どうでもいいようなケースを除いては、軍事力を使う必要がないということである。なぜなら、軍事力を行使するぞという威嚇のみによって、さらには、そういう威嚇をするぞということをほのめかすだけで、ヘゲモニー国は、その目標を十分達成することが可能であり、したがって実際に武力を行使する必要がなくなるからである。これは、かつての──一九四五年から一九七〇年頃にいたる期間の──状況である。もはや今では、そのような状況が存在するということはできない。
今日、合衆国は、世界経済におけるさまざまな展開が、合衆国の管理能力を越えて、その手を離れていっていることに気がついている。世界という場において、正当なものとして他国に広範に受け入れられた明確な政治的目標は、合衆国の手にはない。その同盟諸国は、自律的にそれぞれの戦略と戦術を遂行しようとし始めている。そして、なによりも、合衆国は、長期化と費用を恐れて、容易に戦争をすることもできず、そのおかげで身動きの取れない軍事大国になってしまった。さらに言うならば、以上のいずれの点についても、合衆国にとって先行きに明るさをもたらしそうな材料は現れてきていない。全く逆である。実際のところ、そういう目で見れば、合衆国の国力低下に伴う世論の不満足感・不服感が、今日の合衆国の国内政治の大部分の動因となっているということさえできるだろう。アメリカ合衆国は、まだ「張り子の虎」ではないし、まだまだ世界の超大国でいられるかもしれないが、今後十年から二十五年における世界のさまざまな展開の成り行きに、どの程度制御力を持つといえるであろうか。私には、それはたいした程度ではないように思われる。
イマニュエル・ウォーラーステイン
Immanuel Wallerstein, "How Strong is the Superpower?" Commentary No. 1 (Oct. 1, 1998). http://fbc.binghamton.edu/01en.htm
著作権(1998年)
原文に関するすべての権利はイマニュエル・ウォーラーステインが留保する。
翻訳/山下範久
編集/安濃一樹